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 〔4.2 アプローチの違いによる相打ち型議論〕

 研究者同士のコミュニケーションで特に問題となるのは、分析型のアプローチをとる研究者と、総合型のアプローチをとる研究者とが、同じ対象を互いに逆方向から研究する場合であろう。

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(研究者1→)
《枠組みA》――――>《プロセス》―――>《結果B》
   ×         ||        ×
《枠組みAの <―――《プロセス》<―――《結果Bの
前提条件を検証》             反例を仮説》
                    (←研究者2)

[図 4-1 : 同一対象を互いに逆方向のアプローチで検証した場合]
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 例えば図 4-1 のように、「AならばB」、「BでないならばAでない」という具合に、どちらも論理的に正しい(あるいはどちらも正しくない)ことを言っているにもかかわらず、第三者にどちらかが間違っているという印象を与えてしまう議論がしばしば見受けられる。ここではそれを「相打ち型議論」と名づけることにする。

 「相打ち型議論」に、第三者の立場で遭遇した場合は、次のことに注意して議論を観察してみるのもよいであろう。それは、両者がそれぞれ何を主張しているか、何を前提としているのか、互いに相手のどの部分を否定しているか、などである。少し距離をおいて眺めてみることで、「相打ち型議論」を客観的に評価できるかもしれない。

 「相打ち型議論」において、とくに議論しているもの同士は、感情的に相手を非常に受け入れ難く感じるはずである。なぜならそれは、お互いが共に相手の出発点を否定し、さらに相手によって自分の結論を否定されているからである。自分の頭の後ろは見えないが、相手の頭の後ろはよく見えるというわけである。たいていの場合は感情論になってしまい、議論の成立前提を崩してしまう結果を生む。そして、その議論の成立前提を崩すことこそが、科学の発展を阻む最大の原因になっていると考えられる。

 「相打ち型議論」であることにお互いが気づき、意識上における視線の向きが180度異なることさえお互いが認めれば、より高い次元の立場において、意見の一致を認めることはおそらく可能である。つまり、逆方向のアプローチをとる者同士が、お互いに補い合い、協調し、より高い次元の枠組みを探し、意見の一致を互いに捜し求めるならば、相補的効果が現れる可能性は十分にあるだろう。


 さて、このような一つ高い次元からの認識が可能となるための条件は何であろうか。それはまず;
(1)自分がどのような視点で物事を見ているか
(2)自分の視線はどちら向きか
(3)自分の視野はどの範囲か
ということを客観的に知っていることが必要条件であると考えられる。すなわち、自分の'主観'を自分自身で'客観的'に評価できるかどうか、という点である。そしてその条件が、認識上の困難問題を回避する鍵になっていると考えられる。


 では次に、なぜこのような認識上の困難問題が生じるのか、その原因を人間が鏡をどのように見ているか、という問題で考えてみよう。

 問:「鏡は左右逆さに映すのに、なぜ上下逆さに映さないのか」

 この問に対し、「問を発した相手」の「認識レベル」に合わせ、相手を納得させられるように「説明できる」人は、この認識上の困難問題が何に起因しているのかを知っている人である。

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      (左手)       (?)
        ▲    |    ▲
        ∩    |    ∩
  (自分)  ○>  →|←  <○  (相手)
        ∪    |    ∪
        ▽    |    ▽
      (右手)  (鏡面)  (?)

       [図 4-2 :鏡の中の相手と自分]
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  命題A:「鏡は左右逆さに映す」

という命題Aの前提として、たとえば;
(1)鏡も人も地面に対して垂直に立っている
(2)鏡を見る人の視線は、鏡の面に垂直である
(3)人間の姿は、上下・前後は非対称であるが、左右だけが対称にみえる
(4)思考の範囲は鏡に映った二次元平面の範囲で考える
という暗黙の前提認識が考えられる。

  命題B:「鏡は上下逆さに映す」

という命題を考察する場合は、すでに認識されている命題Aの「前提」を再検討する必要が生じてくる。そして思考の範囲を、前後、左右、上下と三次元に広げることによって、

  命題C:「鏡は前後逆さに映す」

という、もう一つの結論を得ることができる。

 ここで注意が必要なのは、命題Cの結論を受け入れた時点で、命題Aの認識は、(間違いとは言えないが)より狭い思考の範囲での解釈である、という認識に変わるという点である。つまり、命題Cと矛盾しない命題は、

  命題D:「鏡は上下・左右をそのまま映す」

という命題になるからである。

 しかし、上記の思考プロセスをたどった経験のない(命題Aの認識しか持たない)人にとって、命題Dの認識は、何か間違っているように感じられるはずである。思考の範囲を限定している人(本人にとってはその範囲が自分の思考の全てなので、範囲を限定して思考しているとは夢にも思っていない)が、その人の思考の範囲外について評価する場合に、次のような現象がしばしば見られる。

 たとえば、命題A:「鏡は左右逆さに映す」を何の疑いもなく受け入れている人にとっては、その人の思考の範囲を越えた次元については認識することができない。よって、命題C:「鏡は前後逆さに映す」という命題は、その人にとっては'意味不明'に感じられるであろう。さらに、命題D:「鏡は上下・左右をそのまま映す」という命題は、その人の常識に反しているので、間違って感じられるはずである。


 この例のように、一つの解を鵜呑にしている人によって、より高い次元で認識している人の方が、「常識も知らないで意味不明のことを言う人である」と、否定的に評価される、という現象がしばしば見受けられる。


<意見>
 認識における困難問題を助長してきた根本原因に、日本における「教育」に対する「認識」に問題があったと私は考えている。いままでの日本の科学教育は、実験や論理的な思考のプロセスを軽視し、結果を重視する知識移動型の教育が中心的であった。さらに、白黒はっきりさせる分析形の科学だけを科学として認識してきた。これらのことが結果的に、科学自体を宗教化し、信仰の対象にしてしまう結果を導いたのではないだろうか。


  〔4.1 工学から科学へのアプローチ〕
  〔4.2 アプローチの違いによる相打ち型議論〕
  〔4.3 分析科学と総合科学〕
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