【目次】

【はじめに】

 本論文は、1996年2月から3月にかけて、インターネット上のニュース'fj'に投稿した記事を元に再編集し直したものである。

 人はよく、「正しさ」の判断基準として、「科学」というものさしを使う。「科学的に言って正しい」とか、「科学的に言って間違っている」という言い方をする。あるいは、「それは科学的である」とか「それは科学的でない」という言い方もする。では、はたして「科学」という'ものさし'は、万人にとって共通のものであろうか。もし共通のものとすれば、それはいったいどのようなものさしであろうか。もし共通のものでなく、人や分野によって変化するものであるとすれば、それは「正しさ」の判断基準として使えるのであろうか。現在、科学の扱う対象が大きく広がってきたが、それにともなって科学の概念そのものも変化してきているのではないか。科学という概念そのものに歪みが生じているのではないか。

 上記のような問題意識をもって「科学」というものを見つめなおしたとき、そもそも「科学とは何か」という根本的な問題にぶつかった。科学とは何かという問、すなわち科学を定義することは可能なのか。このような問に対する回答をこの論文で表現しようと試みた。この論文は「科学」を「科学」することによって、「科学」を再帰的に定義しようと試みた、ひとつの結果である。つまり、「科学」という言葉が、この論文全体を象徴し、また逆にこの論文全体が、「科学」という言葉の表す概念を規定する、そのような自己参照的な構成で表現することを試みた。

 まずはじめに、私自身がどのような視点・視野で物事を見ているか、ということを述べておく。私がまず科学的と感じる特徴は大きく分けて3つの部分からなる。それら3つの部分は「流れ」と「方向性」持ってそれぞれつながっている。流れには順方向と逆方向があり、それらはそれぞれ一見相矛盾する2つの科学概念をつくり出している。それらが私の頭の中では相補的に共存している。ここで「相補的」というのは、互いが他を補い合いあって共存していて、片方だけを独立して取り出せないような概念、あるいは片方を否定するともう片方も否定されるような概念をいう。科学の成長過程・発展過程において、科学と科学者、すなわち「科学の対象」と「科学する人間」との関係は、お互い切り離して考えられない関係にある、と私は捉えている。とくに科学する側の人間の思考プロセス、および思考の流れに視点を置きながら全体を眺める方法で考察していく。


【はじめに】
【1.科学の構造と特徴】
【目次】